宮崎城跡

更新日:2023年03月31日

県 史跡 昭和40年1月1日指定

朝日町城山10

朝日町の東寄りにヒスイ海岸(宮崎・境海岸)を臨んで、標高248メートルの台状の山容で屹立し、山頂に無線通信のアンテナが立つ城山地塊は、中世の越中・越後国境争奪の拠点ともなった宮崎城の構築された城山である。この城山も、近年の踏査や測量で新しい遺構などが明確になり、新たに宮崎城とは何かという問いを生んでいる。

城山の麓には笹川が巡っている。南の渓谷には笹川集落、北の沿岸に面して宮崎集落、北西山麓には海に臨む元屋敷集落が位置している。

台上の平坦な尾根筋には削平や空堀が施され、北東から南西に伸びて遺構がある。北端は深さ20メートル近い巨大堀り切りで尾根を絶ち、搦手(城の裏門)の東城域と相対している。本城南下鷲野平は大手(城の表門)となり、二の曲輪(城の囲い)の虎口へとつながる段曲輪が連続し、その左右の斜面には逆茂木で防御した遺構が、幅狭い棧敷状段曲輪群と切岸、竪堀と配置されている。それの尽きた平には、旧街道跡や武士団屋敷跡が確認され、そこから南に突き出す宮壇砦への尾根は、竪堀と連結する大型の掘り切り二筋で遮断されている。本城より南西へ伸びる御窪尾根は、竪堀と連結する浅い空堀を隔てて、一部駐車場となる御窪笹曲輪に接続し、数条の掘り切りを隔てて大がかりな削平、削崖工事が施された段階状御窪曲輪群となる。その先は、笹川谷まで痩せ尾根が急傾斜で下る。本城曲輪に相対する東城曲輪部は、本城の鬼門にあたる城塞である。標高248メートルの独立峰と尾根を削平した曲輪や堀切りの側壁にあたる切岸は、高さ15メートルを超え、掘り切りや段曲輪に囲われる腰曲輪が縁辺部を巡る。

この城の築かれた時期は必ずしも明らかではないが、江戸時代に現地調査を実施した、文化7年(1810)の長屋左近の記録『三州志』や、『越中古城記』『新川郡書上申帳』の記事も重要だ。だが、昭和7年(1932)の『富山県史蹟名勝天然記念物調査会報告』などと、数値には差異がある。富山県内最古の山城であり、越中・越後の国境近くで日本海側の交通要地を押えた防塞としても重要で、今後も保護に努めたい。

城跡の伝説や歴史では、平安末の寿永二年(1183)に、平家討伐の以仁王の令旨(皇子の命令)を受けた木曽(源)義仲が、宮崎党の惣領の宮崎太郎・佐美太郎らと、以仁王の王子の北陸宮を奉戴し、旗頭にした際に築城した。承久の乱(1221)には、宮崎党の宮崎定範が北信濃の仁科氏と連合して防戦したが敗北した。南北朝時代(1331~1392)の抗争や戦国時代(1467~1568)には、越中・越後国境の攻防に鎬を削る合戦の拠点となったと北陸の中世史を明らかにする重要な山城となる史跡だから第二次世界大戦の工事で、原形の一部に変改はあるが、東城曲輪は県指定史跡とされている。

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