臼ヶ谷中世古墓出土品

更新日:2023年03月31日

町 歴史資料 平成7年2月3日指定

朝日町笹川臼ヶ谷地内

 

昭和48年(1973)春、朝日町城山(標高248メートル)の本曲輪直下、南面する中腹の武家屋敷(土屋敷)跡の西に隣接した臼ヶ谷地内(標高約160メートル)で、土葬墓が発見された。

朝日町城山での築城時期は必ずしも明らかではないが、平安末期から近世初期までの中世争乱に際しては、越中越後国境の要害として山城が築かれていた。数多くの戦火が交えられており、各時代の各種の遺跡や記録も多い。

○陶質遺物、珠洲焼大甕

高さ58.3~63センチ、口径59.5~64.5センチ、胴径は口縁下で64.2センチ、底径は15.1センチを示し、口径・器高・胴径の比率は100:98:99ぐらいで、やや胴張り尻すぼまりのプロポーションとなる。須恵器と同様の巻き上げ、叩き締めで成形されて、遺物の器壁厚は約2.5センチに平均している。外面には長さ6~7センチ、幅0.4センチの条線状叩き目が胴部まで施されており、横位の腰より下では右下がりになっている。内壁は掌を使って押えたために、手指の跡が明瞭にみられる。底の方は右回りにかきとり、胴と頸部は指頭で縦位に丁寧なかき上げ調整がなされていた。

胎土には多くの砂礫粒が混入され、底にも細砂がくい込み、焼成のやや不良なことと相まって、紫灰色を呈する。口縁端は外側に折り曲げられ、玉縁状の丸味を帯びた形となる。土器は無釉であるが、口縁から3.5センチ下がった肩部に、竹管の切り口を十字に切り込んだ施文具で、2.5センチの間隔に施した小刻印二個の窯印が押されている。この型の土器は、珠洲焼が量産体制に入った南朝時代(14世紀)のものと考えられる。

○銅銭遺物

遺体のあった敷石上に、6枚の銅銭があった。唐銭の「開元通宝」1枚、北宋銭の「太平通宝」「祥符通宝」「明道通宝」「熙寧元宝」「元豊通宝」各1枚。「元豊通宝」だけは離れて検出されたが、他の5枚は重ねて検出された。中国渡来銭のこの6枚は、葬儀に際し死者とともに棺の中に入れられた奈良時代以来の銭貨埋納の奉斎儀礼の1つと考えられ、銭種から中世の六道銭の成立期と考えられる。

 

 

甕に入った遺骨は、甕の周囲を赤土で固めて密閉した墓壙の無酸素状態が、遺物の保存に良かったようで、新潟県奥山庄関係、板倉町の山寺などでも類似例が発見されている。遺存する頭蓋骨の長骨幅指数から見ると、頭はサイツチ頭の長頭型に属し、顔は短く、現代人よりはむしろ古墳時代人に似た鎌倉時代人に近いととらえられる。骨格は比較的大きくて、身長は高いが、華奢な30歳ぐらいの男子であろうと考えられた。

骨には外傷と見られるものは存在しないので、病死と考える。残っていたむし歯の状況から、比較的高級な食生活の可能な人物と推察する。南北朝後期に、城山や笹川にかかわる青年武将で、周辺に埋葬された粗末な古墳もあるところから、従者を持つ比較的地位の高い人物であったのだろう。

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