伊東彦四郎資料(画像、書跡、墳墓)

更新日:2023年03月31日

伊東彦四郎資料(画像、書跡、墳墓)

町・歴史資料 昭和41年5月25日指定

朝日町横尾1116(伊東禮三)・泊283(常光寺)

伊東家は、延享4年(1747)、彦四郎の祖父加兵衛の代に、藩から、現在の朝日町と入善町・宇奈月町の一部にあった六十余町村の 十村役 ((とむらやく))に任ぜられ、御用所を沼保において執務した。

八代目彦四郎は 祐寿 ((すけとし))といい、天明2年(1782)十村役となり、天明5年(1785)には、扶持高二十石の無組扶持人十村役に昇格し、天保5年(1834)に世を去った。在任中は藩の方針に従い、養蚕を奨励し、舟見野台地開発のため、愛本用水を開発するなどに努力した。他方、文化人としても、竹堂等と号し、俳諧をよくしまた茶道も嗜んだ。

(写真)伊東彦四郎自画像の画像

画像は、文政11年(1828)冬、古希を迎えた彦四郎が、 栗 ((りつ))せんと号して時の心境を読んで讃とし、下半に自像を画かせてある。画像からは、剃髪して大安と改め、静かに人生をかえりみて、来世に道を求めようとした枯淡の心と姿が見られる。横28センチメートル、縦102センチメートルで、明朝風表装の堅物の掛け軸である。

(写真)伊東彦四郎書跡の画像

書跡は、女流俳人の加賀の千代尼との親交を証する掛け物である。

(写真)伊東彦四郎の墓の画像

墳墓は、東西役3.5メートルの墓城に、4段の石を積み上げた全高約90センチメートルのもので、当時の権勢を物語っている。

この記事に関するお問い合わせ先

朝日町役場 教育委員会事務局
〒939-0793 下新川郡朝日町道下1133
電話番号:0765-83-1100
ファックス:0765-83-1109