横水一里塚

町 史跡 昭和42年12月5日指定

朝日町横水

 

 新川地方の歴史を規定するものとして、3000メートル級の山岳地帯を源とする黒部・片貝・早月川などの大河川を幾筋も有していることと、舟見野・棚山野から宮野・十二貫野・大海寺野・室山野と連なる広大な隆起扇状地を擁していることをあげることができる。ことに、流路が短く、傾斜度の強い河川は、必然的にしばしば氾濫し、乱流小河川を生じた。また、洪水や川止めなどによる往来の停滞を余儀なくされるなど、古来、この地方の北陸道は、「黒部四十八が瀬」とよばれ、「親不知子不知の険」と並んで、難所の一つに数えられていた。

 寛永12年(1635)の武家諸法度改定により、外様大名の参勤交代が制度化された。このため、藩命により、万治年間(16581661)に、三日市と泊宿間に、黒部川上流部を迂回する上街道が設けられ、川西で浦山村、川東で舟見村が新宿に指定された。(『増補大路水経』)次いで、寛文元年(1661)に、川幅の最も狭隘な所に刎ね橋が架けられ、「愛本」と名付けられた。上街道の整備はこのようにして進んだが、横水一里塚や舟見御前林(入善町指定文化財)などは、この過程で設置されたものと考えられる。天和3年(1683)、漂泊の俳人大淀三千風は、愛本橋に至り「日本第一の奇桟、さながら虹梯の天工を奪う」(『日本行脚文集』)と激賞し、道中、横水一里塚も見て通ったはずであるが、記録に留めていない。また、元禄2年(1689)、『奥の細道』の旅の途次、越後から越中路へと進んだ松尾芭蕉は、「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古という云浦に出」と、また、曾良は「人雇テ荷ヲ持せ黒部川ヲ越、雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有、壱リ半ノ廻リ、坂有」(『曾良旅日記』)と記し、上街道は経由しなかった。伊東文書によると、文化5年(1808)の記録に、「舟見の町はずれ五百間ばかり上に御座候」とあり、上街道では、舟見にも一里塚が築かれていたことがわかるが、現在ではあとかたも見られない。横水一里塚も、街道の東西に築かれたが、東塚のみ形を留め、交通史の上で貴重な遺構となっている。

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